お茶の発祥は5400年前の中国だと言われています。
さて、日本には、いつ頃、どのようにしてお茶が入ってきたのでしょう?
また、日本に入ってきたお茶はどのようにして日本全国に広まっていったのでしょう?
お茶の歴史、広まりがわかると現在のお茶の産地のことがすっ~と頭に入ってきます。
ではここで問題です。
『日本で一番のお茶の生産量が多い都道府県はどこでしょう?』
『私たちが飲んでいる煎茶が生まれたのはどこでしょう?』
今回は、緑茶の歴史ということで日本におけるお茶の歴史、お茶の産地についてやっていきましょう!
【緑茶の歴史】日本にはいつ、どうやってお茶が入ってきたの?緑茶の広がりでよくわかる日本のお茶の歴史!!
聖徳太子もお茶を楽しんだ!?
お茶は中国や朝鮮との交易の中でもたらされたと考えられています。
日本では古代から中国や朝鮮との交流があったことが歴史書などからわかっています。
大陸文化を受け入れる中で、お茶が伝わったであろうことは想像できます。
中国の隋時代には、お茶を飲む習慣が広く庶民に浸透しています。
遣隋使として隋に渡った小野妹子はお茶の施しを受け、茶文化を日本に持ちかえっているだろうということは容易に想像できます。
聖徳太子や推古天皇、蘇我氏もお茶を楽しんでいたのではないでしょうか。
お茶の歴史についてはこちら
空海がチャを持ちかえったのが発祥!?
しかし、茶葉を持ちかえるだけではお茶文化は広がりません。
高僧等が中国から日本へ持ちかえったとされるチャの種が、その後どのような変遷を辿ったのかをみていきましょう。
チャについてはこちら
平安時代前期(806年)、空海が唐から持ち帰ったといわれるチャの種は、奈良県宇陀の佛隆寺あたりの地に蒔かれ、これを栽培して作ったお茶が大和茶と言われています。
朝晩の気温差が激しい宇陀の地が茶栽培に向き、渋みの中に甘さがあり、後味のよい大和茶ならではの味わいが生まれました。
その後これが京都に伝わり、全国に広まったといわれています。
茶の文化が広がったのは栄西の功績のおかげ!?
1191年、臨済宗の祖である栄西禅師が日本に持ち帰ったチャの種は、佐賀県脊振山と栄西が初めて建立した福岡の聖福寺に蒔かれ、京都・栂尾高山寺の明恵上人にも送ったと伝えられています。
佐賀県脊振山の山麓にある霊仙寺跡には、現在でも栄西が栽培したという茶畑が残り、周辺の茶畑とともに作られているのが栄西茶です。
標高300mの吉野ケ里東脊振地区は茶の栽培に恵まれた環境で、新緑の時期になると朝霧に包まれ、宋から明代に伝わった釜炒り手揉み製法で製茶されます。
栄西と宇治茶の始まり
また、栄西からチャの種を送られた京都の明恵は高山寺の周辺に蒔き、その後、宇治、仁和寺、醍醐などにも播植したとされています。
これが宇治茶の始まりです。
宇治の萬福寺の総門には明恵の歌碑があり「栂山の尾上の茶の木分け植ゑて あとぞ生ふべし駒の足影」と、上人が馬に乗り、馬の足跡になぞってチャの種を植えることを数えた様子は読まれた句が刻まれています。
栂尾では、後嵯峨天皇が宇治を訪れた際に茶園が開かれたのを機に本格的な茶の栽培が始まりました。
南北朝から室町時代には、栂尾で生産された茶が「本茶」、それに続く宇治や醍醐等の茶は「非茶」と呼称されていたと史書に残っています。
大和茶同様、のちにこれらの株が全国に広まったと言われています。
日本でどう広まっていったか?
お茶の産地として知られるのは、静岡、宇治、狭山、鹿児島などですが、こうした地域にお茶はどのように伝わり、広がっていったのでしょうか。
商用のチャ生産の北限は、新潟と茨城
南北に細長い日本では、南は種子島から北は秋田県能代までチャが栽培されています。
チャは本来「南方の嘉木」といわれる作物で、年平均気温は12.5~13℃以上、排水性、通気性がよく保水性も兼ね備えたph4~5程度の酸性土壌が適していると言われています。
そのため、静岡、狭山以北の地は気候的にチャにとって厳しい環境になるため、商用としてのチャの栽培は、採算性から茨城県、新潟県以南で行われているのです。
その一方で、日本海側は積雪が多く、茶樹が雪で覆われると寒風、低温から保護できるという利点があり、秋田県能代市の檜山茶は1~1,5mにもなる積雪とうまく共存して栽培されてきた歴史があります。
こうした寒冷地の茶樹は、小ぶりの葉で小株であるのが特徴なのに対し、温暖な地域の茶樹は、中葉で株もやや大きめになります。
在来種も環境に即して生態系が分化していったことがわかります。
静岡がお茶の名産地になった理由
では、現在、日本を代表するいくつかのお茶から、茶の広がりと歴史を追ってみましょう。
現在、都道府県別での生産量がもっとも多いのが静岡県です。
日本三大茶の一つである静岡茶は、京都・東福寺の開山となった聖一国師(1202~1280年)が、生まれ故郷の安倍郡大川村栃沢(静岡市栃沢)からほど近い足久保の里にチャを植えたのが始まりと言われています。
茶栽培が本格的に広まったのは江戸時代に入ってから。
水はけもよく、酸性土壌がチャの栽培に向いているだろうと、徳川家康が失職した武士を送り込み、畑を開墾したとも伝えられています。
実際、県内には牧之原、磐田原など日照のよい台地が多く、太平洋から地形性上昇気流や大井川、天竜川から発生する霧が、おいしいお茶の生育に適していました。
清水港が静岡茶を盛んに!?
また、1899年に清水港が国際貿易港として開港し、茶貿易が盛んになったことも、静岡全体の茶の生産量を高めることにつながりました。
静岡市の茶町周辺には、輸出用の茶の再製工場(荒茶から製品までの仕上げを行う)が次々と建設され、日本平周辺は茶畑として開拓、港町には輸出用の茶袋、茶箱、茶缶などを作る業者や、製茶機械メーカーが誘致されていったのです。
現在、静岡には牧之原や磐田原のほか、富士・沼津、清水、本山、川根、愛鷹山、小笠山山麓など20を超える良質なお茶の産地があり、全国1位のシェアを誇ります。
やぶきたの原木は静岡生まれ
また、現在の茶の主力種である「やぶきた」を在来種の中から発見したのが、静岡県安倍郡有度村(現静岡市)の篤農家(杉山彦三郎)で、静岡県立美術館近くには原木が移植され現存しています。
全国にある「やぶきた」はこの一本から株分けされていったのです。
宇治茶の始まり
日本茶の代名詞ともなっている宇治茶が生まれた京都は、玉露、碾茶、煎茶の産地として有名です。
茶の栽培は、鎌倉時代、栄西から明恵によって宇治に播植されたのが始まりと言われています。
宇治川の川霧が立ち、冷涼で霜の少ない宇治は、茶の栽培に最適な風土を備えていました。
玉露の被覆栽培も始まり、お茶の味を良くするために試行錯誤されていきました。
喫茶文化と宇治茶
室町時代には喫茶の文化が広まり、宇治茶は高級贈答品として献上されていました。
足利尊氏は茶を贅沢品として倹約を説き、茶寄合を禁じていましたが、足利義満の時代には宇治茶が優れていることを認め、宇治七名園という茶園を自ら作ってチャの栽培を奨励したため、宇治地方は茶の名産地としての知名度を大きく上げることになります。
江戸時代には、宇治田原の永谷宗円が、それまでの深炒り茶から、蒸して手揉みする現在の製茶法へ転換する「青製煎茶製法」を発案し、茶師の間に広がっていきました。
現代人が飲んでいる煎茶はこうして宇治から生まれたわけです。
味の狭山茶
色は静岡、香りは宇治よ、味は狭山でとどめさす。
とうたわれる日本三大茶の3つ目が、埼玉県の狭山茶です。
その始まりは鎌倉時代と言われていますが、詳しい資料は残っていません。
しかし、南北朝時代の初級教科書であった「異制庭訓往来」に、天下に指していう所の茶産地の一つとして「武蔵河越」という記述が出てきます。
江戸中期に行われた武蔵野の新田開発によって茶の栽培が普及し、生産地も武蔵国の狭山丘陵一帯で開拓されましたが、現在は入間市が中心となっています。
狭山丘陵一帯が川越藩の領地だったことから、江戸時代は河越茶と呼称されていました。
商業用の茶栽培がおこなわれている地域としては北に位置し、生葉の収穫は年2回、二番茶までとされています。
他地域よりも生産量が少ないのはそのためです。
狭山茶の味がいいのは寒いから!?
栽培されている品種は「やぶきた」と「さやまかおり」が中心で、近年は「おくはるか」も導入されました。
冬は霜が降りる日もある寒い気候によって、厚みのある茶葉が育まれます。
茶葉を蒸して焙炉に和紙を敷き、揉み乾かすという手揉み茶の製法と「狭山火入れ」と呼ばれる伝統の火入れが色、香り、味のすべてに重厚さを生み出し、少ない茶葉でもよく味が出るといわれる茶ができあがります。
火入れによる濃厚な甘みも狭山茶ならではの味わいです。
新しいお茶の名産地 鹿児島
もう一つ、お茶の一大産地として知られる鹿児島県についても触れておきましょう。
シラス台地が広がるなだらかな地形を活かし、機械化が進む地域で、お茶の生産量は第二位を誇ります。
始まりには諸説あり、800年ほど前に金峰町阿多・白川に平家の落人が栽培を始めた、室町時代に吉松町の般若寺で宇治からチャの種を取り寄せて蒔いた、などが伝えられています。
文政年間(1818年~1830年)に薩摩藩によって茶栽培は奨励されていましたが、本格的に生産を伸ばしたのは、第二次大戦後のことでした。
ここ30年で破竹の勢いの鹿児島茶
1975年頃から本格的な増産が始まったものの、当時は鹿児島茶に知名度がなく、ブレンド用が主流だったことから、1985年からは「かごしま茶」のブランド化にも力を入れ始めました。
最近では、その収穫量と質の高さから静岡・宇治・狭山の日本三大茶に迫る勢いを見せています。
鹿児島は、年間を通じて温暖な気候で日照量が多いため、年に5回収穫でき、簡易被覆をした栽培もおこなわれています。
品種改良も進み、一般的なやぶきたのほか、香りの強い「ゆたかみどり」や色の良いあさつゆなど、多品種がブレンド用のお茶として栽培されているのも特徴です。
また桜島の火山灰対策として、洗浄・脱水装置が開発されて用いられているのもこの地ならではです。
3月半ばに採れる大走り新茶
ほかの産地よりも20日ほど早く出荷される「走り新茶」でも知られ、とくに3月半ばから収穫できる種子島産の「大走り新茶」はもっとも早い新茶として人気があります。
いずれの産地も、茶畑はカマボコ形に造成されています。
5月初旬の一番茶の時期は、新芽の美しい風景となり、地域によって多少の変動はありますが、一般的に二番茶(6月中旬)、三番茶(7月下旬)、秋冬番茶(9月以降)などの摘採時期を通して茶園は整枝され、新芽でなくても形状は整然としているのが日本の茶園です。
まとめ
・日本には遣唐使によりチャが初めてもたらされたと言われている
・鎌倉時代に栄西がお茶文化の種をまき、室町時代以降に喫茶文化が盛んに
・お茶の日本一の生産量を誇るのは静岡県
・日本で一番広がっているお茶の品種は『やぶきた』
・『やぶきた』の原木は静岡県立美術館に今も大事に残っている
・玉露、煎茶、抹茶は宇治茶から生まれた
・狭山茶の味の秘密は寒さのおかげ
・近年は鹿児島茶に勢いがある
コメント